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映画『皇帝のいない八月』(1) [映画]

山本薩夫監督の1978年の作品。原作は小林久三。脚本は山本薩夫・山田信夫・渋谷正行。音楽は佐藤勝。松竹配給。


自衛隊によるクーデターを描いた映画だが、この映画が描こうとしたのはミリタリー・アクションなどではなく、あくまで軍隊と市民社会のあり方ですね。


※以下、ほぼ物語の結末まで書いています。


一部の自衛官と元自衛官によるクーデター計画が極秘に進められていたが、決起前日に発覚。佐橋総理大臣(滝沢修)は、内閣調査室長・利倉(高橋悦史)にクーデターの鎮圧を命じる。


利倉は陸幕警務部長の江見(三國連太郎)に自衛隊内部の調査を命じるが、江見には思い当たる人物がいた。かつての部下で、以前にもクーデターを計画し、自衛隊を追われた藤崎顕正(渡瀬恒彦)である。


藤崎は江見の娘、杏子(吉永小百合)を強引に連れ去り、福岡でトラック運送業を営んでいた。藤崎を特定隊員として監視していた江見は、杏子と藤崎の住むアパートを訪れる。藤崎は帰宅しておらず、5年ぶりに再会した杏子と江見は、藤崎のレコード『皇帝のいない八月』に耳を傾ける。


杏子にはかつて、石森(山本圭)という婚約者がいた。石森を偶然博多駅近くで見かけた江見は、杏子に「珍しい人物に会ったよ。石森君だ。彼は五井物産を辞めて、三流の業界紙で働いているらしいがね」と告げる。


音信不通だった江見がわざわざ訪ねてきたこと、藤崎の部下(永島敏行)が「急用で東京に行く」という藤崎の言付けを持ってきたことから、杏子は、夫が再びクーデターを画策していることを直感し、博多駅へ駆けつける。そして寝台特急「さくら」に乗車するが、そこに石森も乗り合わせてしまう。


藤崎は、それまで石森と面識はなかったようなのだが、石森に「巻き込んでしまったようだ。事が済むまで我々の指示に従ってほしい」とだけ告げる。しかし石森には、杏子を奪った藤崎に対する憎しみと、かつて自分が商社マンとして、間接的に南米のクーデターに加担したという負い目があった。石森は激しく藤崎を非難し、藤崎と結ばれた杏子をなじる。


藤崎たちには大畑剛三(佐分利信)という黒幕がいた。元戦犯で、戦後二度首相となり、今も与党の最大派閥を率いる実力者である。大畑は藤崎らをたきつけ、自衛隊の銃剣下で憲法改正を断行し、反共国家を作り上げようとしていた。しかし対する佐橋首相も、この機会に目障りな大畑を葬り去ろうとする。


…という話で、いくつもの対立軸が存在するが、物語の中心はあくまで藤崎、杏子、石森の三角関係になっている。同時並行で利倉の鎮圧作戦が進んでいくが、こちらはほぼ順調に進んでいき、クーデター自体はあっけなく失敗する。利倉は有能、冷徹そのもので、それに比べると藤崎は幼稚に思えるほどだ。


クーデターが潰えたことを知った藤崎は、特急「さくら」の340人の乗客を人質に取り、大畑内閣の実現を要求する。この時点で、藤崎らの行為にはもう意味がなくなっている。


大雑把にいうと、藤崎は軍国主義、石森は民主主義を具現するキャラクターである。藤崎は「美しい日本」を守ろうとし、石森は平和と民主主義を守ろうとする。しかし藤崎も石森も、今の日本では異端的存在に過ぎない。


現実の日本は佐橋、大畑、利倉らが取り仕切っていて、結局このクーデターも政権内部の権力闘争に過ぎない。江見は一自衛官であり、体制の歯車である。


利倉は、鎮圧部隊を編成し、佐橋首相に特急「さくら」への強行突入を提案する。「乗客の損耗率10パーセント」を知った江見は、半狂乱になって突入を阻止しようとするが、「公私混同も甚だしい」と利倉に殴られ、最後は官邸の職員に連れ去られてしまう。利倉は江見を「拷問で人を殺すくせに」と吐き捨てる。


利倉は藤崎たちに対しても容赦ない。「さくら」の乗客を藤崎らが人質にとったことを知ると、「極左暴力集団と変わらない」と罵倒する。当時世間を騒がせた、よど号ハイジャック事件が念頭にある。


この映画のテーマ音楽『皇帝のいない八月』は、悲壮感に満ちた荘厳な曲なのだが、私の見た限りでは映画中で3回流れている。1度目は、江見が「石森君を見たよ」と杏子に告げた後、石森が博多の街を歩き、そのあと藤崎が、言付けで杏子に別れを告げるシーン、2度目は、鎮圧部隊が「さくら」に突入し、藤崎、杏子、決起部隊の隊員たちが銃弾に倒れるシーン、3度目は、佐橋の元を辞した利倉が官邸の階段を下りていき、東京の歩行者天国の様子が映し出されるシーンである。


曲風からしてこの音楽がヒロイズムを表現しているのは明らかなのだが、最初に使われたのは石森の歩くシーンなんですね。そして藤崎、杏子、隊員たちの死、官邸を後にする利倉。どうもこの曲は、何ものかのために死を賭して戦う者たちに捧げられた賛歌という気がしてくる。


鎮圧部隊の突入を知った杏子は、石森の腕を振りほどいて藤崎の元に駆けつける。驚いた藤崎は杏子を一瞬はたくが、二人はしっかりと抱き合い、銃弾にまみれる。藤崎は死に間際に列車の爆破スイッチを押す。いったん列車を脱出した石森も、爆発を見て杏子を救おうとし、鎮圧部隊の制止を振り切るが、やはり銃弾に倒れてしまう。


藤崎、杏子、石森、利倉らは、それぞれ何かのために身を挺している人たちだ。けれども、その何かがお互いみんなずれていて、物語は悲劇的な結末を迎える。そのヒロイズムの上に、今の日本の平和と繁栄が築かれている。


しかしその悲壮感とは裏腹に、最後のシーンで映し出される歩行者天国の一般市民は、いかにも能天気で、軽薄にさえ見える。「義を見て死のうとする者はいないのか」と列車内で自問する藤崎や、藤崎と対決し、杏子を救おうとする石森は、あっけなく死んでしまい、ただの列車事故の犠牲者として片付けられる。そのやるせなさが何とも言えない重い気持ちにさせる。


利倉はクーデターの鎮圧後、事件をうまく隠蔽したことを佐橋首相に伝える。「あのワインの出どころは、わかったかね?」と佐橋に聞かれた利倉は、「総理、追い詰められたら、また大博打を打つおつもりですか」と佐橋をたしなめ、官邸を後にする。


最後の勝者は佐橋首相、そして戦後の大衆消費社会である。藤崎らに武器を供与したCIAも、結局利倉の包囲をくぐり抜けてしまう。官邸を後にする利倉の表情は硬い。


やはりこの曲は、倒れた英雄たちへの賛歌だと思うのですね。


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第四惑星の悪夢 [特撮]

年末にKBS京都でやっていた、ウルトラセブンの第43話「第四惑星の悪夢」を久しぶりに見てみた。


う~ん、これってパラレルワールドなのか?


子どもの頃に私もこれを(再放送で)見て、強烈な印象だったけど、何から何まで地球と、特に日本とそっくりな星、第四惑星。


そこに出てくるガソリンスタンドの「ガソリン」という表記すら同じ日本語なので、物語としてはそこがいまいち迫力がないという気もしていたのだが、パラレルワールドなら日本そっくりの星でもいいような気がしますね。


第四惑星という表記自体、地球のすぐ隣、よく似た星だけどやはり違う星、というニュアンスが込められているような気もするし。


脚本の上原正三氏がそこまで考えていたのか?という気ももちろんするけど、要はウルトラセブンの楽しみ方ですね。そう考えてみるとまた楽しめるというか。


地球、そして日本も、どこかでわずかに間違うと、第四惑星のような星になるかもしれない。この回は高度成長期の日本に対するアンチテーゼなので、その程度の理解で十分なんでしょう。


超光速で飛行するスコーピオン号が、モーガン・フリーマンみたいに時空を超えて、パラレルワールドの第四惑星に着陸した。『猿の惑星』では人間にとって代わったのは猿だけど、「第四惑星の悪夢」ではアンドロイドだった。


「第四惑星の悪夢」の次の回、第44話は「恐怖の超猿人」なんですね。『猿の惑星』が日本で公開されたのは1968年4月で、ウルトラセブンの「第四惑星の悪夢」「恐怖の超猿人」の放送はそれぞれ1968年7月28日、8月4日だから、スタッフたちが影響を受けていた可能性はありますね。


だいたい、ソガとダンがのるロケットは「スコーピオン号」だし。『猿の惑星』でテイラーたちがのったロケットはオリオン号で、「第四惑星の悪夢」でも冒頭でソガがやたらと占星術に凝っている。


サソリに刺されたのがオリオンだから、スコーピオン号は明らかにオリオン号の後に続く宇宙船である。上原氏は「恐怖の超猿人」も市川森一と共同で脚本を書いていますしね。


しかし、第四惑星が地球のパラレルワールドだとすると、第四惑星の地球侵略部隊が地球を侵略できるのか?という気もしてしまう。


ダンとソガが第四惑星に行ってるのだから、その逆も可能なんでしょうけどね。


あのロボット長官は、多世界の住人(住ロボット?)が、他の世界の住人に干渉できることを、スコーピオン号を誘導することで実証したかったのかもしれませんね。


だからこそ「わが第四惑星のすぐれた科学力」なのかな。ここまでくると、もうどうでもいいような話ですが。

映画『疑惑』 [映画]

子供のころに見た、野村芳太郎監督の映画『疑惑』を、このゴールデンウィーク中に見てみた。この作品についてはネット上でもたくさん感想や批評があるのだが、私も思いついたことなど。


まず、この作品は原作とはやはり別物だと思います。それはこの『疑惑』に限らず、同じ松本清張作品でも『迷走地図』とか、あるいは横溝正史の『八つ墓村』もそうなのだが、野村さんが映画化すると、派手に「脚色」するわけではないのだけど、やっぱり別物になってますね。


だいたい、弁護士からして違うし。原作では佐原弁護士はおじさんだけど、この映画では岩下志麻さんの演じるバツイチの美人弁護士。そこらへんからして大衆向けですね。


そして原作では準主役級だった秋谷記者を、柄本明を使って、最後に大損する喜劇的な脇役に押しのけている。こういうの、『迷走地図』では津川雅彦がやってますが。観客が最後に「バカだなあ、こいつ」と笑って終わりの役どころですね。


佐原律子が映画のラスト近くで、別れた亭主の後妻に会って…というくだりですが、ここはその当時ならではという感じですね。今ならどうなのか。今の時代だと違和感を感じる人も多いと思いますね。キャリアウーマンに対する当時の否定的な風潮が表れているように思う。


堀内とき枝(山田五十鈴)が佐原律子に「あんた弁護士なのにそんなこともわからないのかい。そんなこっちゃ亭主に逃げられちまうよーッ!」と毒づくシーンも、今の感覚からすると、いらないような気もしますが。仕事一辺倒で男女の機微がわからない律子に対する批判ですね。女性のキャリア自体は否定しないけど、それだけでいいのか…みたいな。しかしそれで最後に律子がああなってしまうのは、あまりに酷な気がしますが。


そしてなんといっても桃井かおりさん。この方の演技力は若いころからずば抜けてたんですね。強烈な迫力で、ほかの役者たちを圧倒してます。


桃井さん演じる旧姓「鬼塚」球磨子。このまことに憎たらしい、ふてぶてしい、強欲なキャラクターを見事に演じておられるのだけど、それでも映画をラストまで見て、ああこういう結末かと分かったうえでもう一度最初から見ると、あの球磨子の態度や反応も納得できるというか、なるほどなと思うことが多いですね。


たとえば白河福太郎の葬式のシーンとか。球磨子がふてぶてしい様子で、ロクに挨拶もせずにのっしのっしとやってくる。そこへ北林谷栄さんのこれまた名演技で、散々に北林さん演じる大奥様になじられるのだが、「フフッ」と不敵に笑って見せる球磨子。まーなんて憎たらしい奴だ、この女!というところなのだが、あとから考えると当然という感じもしますね。


この映画全体を見て感じられるのが、鬼塚球磨子に対する、周囲の人々の、ある種の差別的感情。裁判で証言する岩崎専務(名古屋章)や島田勝行(水谷貞雄)なんか、いろいろ迷惑したし恨みもあるのだろうけど、それでも容赦なく球磨子を裁判長(内藤武敏)相手にこけおろす。


「この女」「こんな女に」「この女に迫られたに決まってる」と連発し、本人の面前で徹底的に誅罰するという感じ。さすがの球磨子も呆然とした表情で黙って聞いているのだが、ここらへん、白河家の人たちの球磨子に対する蔑視の気持ちというか、裏返せば大企業・資産家一族の優越意識が垣間見えてますね。


岩崎専務の回想シーンの中でも、球磨子はクラブのホステス相手に「バカにすんじゃないよ!」と乱闘騒ぎを起こすのだが、それがどうも食い逃げすると疑われたかららしい。岩崎と福太郎が駆けつけるとクラブの従業員たちは態度を一変させ、球磨子に平身低頭するのだが、こういうところも細かい演出だという気がする。私が考え過ぎなのかもしれませんが。


元彼の豊崎(鹿賀丈史)が球磨子に不利な証言をするシーンでも、一度豊崎につかみかかった後、二度目の証言では仕方なく黙って聞いている。しかしここでも球磨子はうっすら涙を浮かべているようで、この演出も細かいですね。


豊崎は結局嘘っぱちを言っているのだが、こういうの見ると、文春とか新潮とか読売朝日もどこまで信用できるのかと思う。まあ、「裁判の真実ってそういうものよ」という律子のセリフもそうだけど、マスコミや司法で言う「真実」というのも、なんだかあてにならないような気がしてしまう。


古い映画で今見るとたいしておもしろくないかな…?とも思っていたけど、とんでもない。ほかにも見どころ満載で、すごい映画だなと思う。テンポがいいし、ほかの役者さんたちの演技もみんな「立ってる」という感じで、ちょっとしたワンシーンでも見ていておもしろいし、また全編通じていろいろなことを考えさせてくれる。これに比べると、今時のテレビドラマや映画は、粗悪品のおもちゃみたいなもんですね。


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機動戦士ガンダム THE ORIGINE [アニメ・コミック・ゲーム]

今、やっと4巻(ガルマ編・後)を読み終わったところ。忙しくてなかなか読む時間がとれないけど、読み出すとおもしろくて夢中になって読んでますね。

「ジオン公国に栄光あれ~」と叫ぶあのセリフ、吹き出しじゃなくてコマの背景に太字で書きこんでるところだけど、あれはどうなのかな。劇中の森功至さんの絶叫が頭にあるので、どうもそれに及ばないような。吹き出しでコマをはみ出して描いた方が迫力があってよかったような気がしますね。

それと、安彦さんの「テンポ」というか、セリフの書き方が、アニメに比べると少し遅く感じる。たとえば、アニメだと「いい女になるのだな」とスラスラッと池田秀一さんが言ってるところ、THE ORIGINEだと 「いい女に」「なるのだな」と吹き出しを別にしてるから、ゆっくりしゃべっているように感じる。安彦さんはこういうゆっくりめのテンポでしゃべらせるのが好きなのかな、と思ったり。

THE ORIGINEは安彦良和さんの漫画だから、まあ安彦さん一人の作品。だから全部安彦さんの考えで貫かれてるんだろうけど、アニメのガンダムは、監督・富野由悠季、アニメーションディレクター・安彦良和、メカニックデザイン・大河原邦男、脚本・星山博之、…といろんな人たちが関わっているから、「ガンダム」のとらえ方をめぐって、微妙にずれているというか、バラバラなところがありますね。

シャアのキャラクターでも、あれは富野さんの原案と安彦さんの絵と、池田さんの演技が合わさって出来たという感じがする。大本は富野さんがつくってるのだけど、そこは「アニメ」だから、いろいろなスタッフや声優が関わって、その結果思わぬものが出来上がっているという気がする。

富野さんの発想が難しすぎて、ほかのスタッフやプロデューサーがあまり理解できなかった。富野さん自身もメモ段階では「エスパア」みたいなもの、と書いてたのが「ニュータイプ」へと変化していくわけで、試行錯誤の末にとりあえずこういうのにたどり着いたという感じがする。

誰もはっきりとした全体を見通していなかったからこそ、予想もしなかったおもしろい作品ができた、それが「ガンダム」ではないのかな。

だから、富野さんや安彦さんの当初の思惑を抜け出て、いろんな後継作品が出来て、富野さんが「嫌い」だというガンダムファン、ガンダムマニアも出てきて、つくった人間たちの手を離れて勝手に動いていって発展していくような宿命を「ガンダム」は持っていたのじゃないかな。

そういう点、THE ORIGINEとか小説版のガンダムは安彦さんや富野さん一人の作品だから、基本的には、つくった人間の意図の範囲内にある。そういうすっきり感はある。

放映当初のΖガンダムなんか、無理やりつくらされている富野さんのイライラが満載という感じで、キャラクターもバラバラですね。池田さんも「これがシャアなの?」と疑問を感じたというし。

カミーユも確かに理解不能なところがあるし。問答無用でジェリドを殴って、それからウォン・リーにブッ飛ばされたときは「暴力はいけないですよ」と抗ったその舌の根も乾かぬうちに、今度は「修正してやる!」と子供のくせに大ベテランのシャアをぶん殴るのだから。支離滅裂ですよね。

私も見ていた当時は「訳がわかんない話」という印象だったけど、今見返すと、その混乱ぶりがおもしろいというか。支離滅裂で混乱しているのが現実の社会で、スッキリ見通せる社会の方がよほど現実感がないから。

宮崎アニメなんか、その点宮崎駿の意思が作品の隅々までピシっと行き渡ってる感じがする(実際はどうか知らないけど)。それはそれでいいのかもしれないけど、一つの作品でキッチリ完結してしまって、広がりがないというか。あくまで監督個人の「作品」で終わってますね。

ガンダムだと、富野ガンダムもあれば安彦ガンダムもあり、個々のスタッフのガンダムもあり、声優たちのガンダムもある、いろいろあるわけで、その中に「THE ORIGINE」もあるのだろうなと。そういう無限の広がりは、今のところアニメ作品の中ではガンダムにしかないように思います。

機動戦士ガンダムDVD-BOX 2

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機動戦士ガンダム〈1〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

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  • 発売日: 1987/10/24
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機動戦士ガンダムTHE ORIGIN (11) -ひかる宇宙編- (角川CVSコミックス)

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  • 作者: 安彦 良和
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2016/12/02
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ツィマーマン ピアノリサイタル [音楽]

びわ湖ホールでクリスティアン・ツィマーマンのピアノリサイタルがあるというので、聞きに行ってくる(チケットのイベント名は「クリスチャン・ツィメルマン ピアノリサイタル」だった
)。とてもいい演奏だった。

曲目はすべてシューベルト。さすがに50代でお腹も出て、髪も真っ白だったけれど、音楽はそれだけに老成したというのか、光沢があって実にまろやかな、錬れた響きだと感じた。

じっくりと集中して、瞑想するように弾く。音楽の流れは自由自在という感じで、リズムや強弱がサッと変わるが、それがとても自然に感じる。そこに解釈の深さが表れている。ベテランの余裕ですね。

左手を使わないときは、左手を胸の前で回してリズムをとるようなしぐさをするのはいつも通り。聴衆にお辞儀をするときもきちっと両足をそろえて、相変わらず礼儀正しい。こういうところは変わらない人だと思う。

しかし何より、音楽的な進化が今も続いているというのがすごいと思う。若い頃の透明感のある音もいいけど、今の音の方がもっと豊かで、演奏に深みがある。やはり稀有な音楽家の一人だと思いました。

シューベルト:即興曲集

シューベルト:即興曲集

  • アーティスト: ツィマーマン(クリスティアン),シューベルト
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2009/04/29
  • メディア: CD

歌劇「カルメン」 [音楽]

カラヤン=ベルリン・フィルによる歌劇「カルメン」の全曲録音。カルメンはアグネス・バルツァ、ホセはホセ・カレーラス。1982年の録音。

今はカレーラスも引退してしまって、若い世代のテノールが活躍しているけど、それでも尽きない魅力があると思う。カレーラスの代表録音の一つではないかな。

カラヤンにとっては映像も含めて3度目(たぶん)の全曲録音なのだが、ベルリン・フィルによる録音は今回が初めて。ベルリン・フィルはカルメン組曲は70年代にも録音しているのだが、全曲はいずれもウィーン・フィルの演奏ですね。

ウィーン・フィルに比べると乾いた感じの音色なのだが、それでなくとも80年代のカラヤンの音作りは余分なものが消えて、全体にスッキリした印象がある。第4幕への前奏曲が特にそうで、とてもリズミカルで乾燥した感じの演奏になっているのだが、それがどこか悲劇的な雰囲気を高めていて、異様な緊張感がある。

エスカミーリョに信頼厚いジョセ・ファン・ダムを起用しているのだが、これはいまいちかな。なんだかとても誇り高い感じのかっこいいエスカミーリョで、伊達男、女たらしの軽薄さがあまり出ていない。第3幕で"Je suis Escamillo!"(俺はエスカミーリョさ)と答えるところも、もっとくだけた感じで歌ってほしかったな、と思う。

ミカエラはリッチャレッリで、当時とても人気のあったソプラノの一人ですが、これももう一つだと思う。澄んだ美しい声ですが、第3幕でホセに会いに来るときのアリア「私は言いました、何も怖くはないと」も、声量が少なくて言葉が聞き取りにくくて、旧録音のフレーニと比較すると明らかな差がある。フレーニと比べるのは酷と言えば酷ですが。

しかしなんといっても主役の二人、バルツァとカレーラスがすごい。この二人で十分という名演になっている。これ以上のカルメンとホセはちょっとないかなと。

カレーラスの自伝によると、「カルメン」のホセを演じるのはかなり勇気がいるそうで、誰でも知ってる曲だからとちれない、わずかなミスもできないというプレッシャーがすごいとか。カラヤンに起用されたときも内心は相当緊張したそうですが、見事に大役を果たしてますね。

圧巻は第4幕で、闘牛場での二人のやりとり。バルツァ演じるカルメンの憎たらしさというのがこれ以上ないというほどで、ホセに「俺についてきてくれ!」という必至の嘆願(というか未練たらしい男の泣き)に、もう嫌悪感むき出しで「嫌だね! 殺すんなら殺せよ、通して!」と吐き捨てる。

この「通して!」の"passer!"がもうほんとに吐き捨てているという感じで、ホセもホセだがカルメンもすごいなと、もう本当に悪い奴だなというリアリズムが出ていて、これぞヴェリズモ・オペラの元祖と思わせますね。

そしてカルメンを思い余って殺してしまったホセ演じるカレーラス。カルメンの悲鳴に騒然として駆けつけた観客を前に、茫然として"C'est moi qui l'ai tuée! "(彼女を殺したのは私です)とつぶやく。ここの哀れさったらないというほどで、ものすごく真に迫っている。そして「ああ、カルメン、カルメン…」と泣き崩れるのだが、グーンとオーケストラが高まって、最後に悲愴な和音を全合奏でしぼり出す。ここもすごいと思う。

こういう最後の場面の盛り上げ方はトスカニーニに学んだのだろうか。とにかくうまいですね。わずか数秒間の間にここまで語らせるというか。最後の音は全音符のフェルマータなのですが、カラヤンはやはりさらに長めに演奏する。こういうところにとてもこだわった人ですね。

ほかにも聞きどころはいろいろあるけれど、この迫真の歌唱と演技、オーケストラのうまさと緊張感、それらが絡み合ってのドラマ性というか、総合力では圧倒的な存在感のある録音だと思う。今でもカルメンの全曲録音としては不動の地位を保っているようですが、そう言わせるだけの説得力があります。

歌劇「カルメン」

ホセ・カレーラス、アグネス・バルツァ、ジョセ・ファン・ダム、カーチャ・リッチャレッリ、ほか

パリ・オペラ座合唱団

シェーネベルク少年合唱団

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1982年

ビゼー:歌劇「カルメン」

ビゼー:歌劇「カルメン」

  • アーティスト: ビゼー,カラヤン(ヘルベルト・フォン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2008/01/16
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小泉和裕指揮日本センチュリー交響楽団 [音楽]

地元のびわ湖ホールで公演があったので行ってきました。期待以上にいい演奏だったと思います。

オーケストラの日本センチュリー交響楽団を聞いたのは今回初めてでしたが、非常にいいオーケストラだと思いました。小泉さんとの相性がいいのか、小泉さんの要求によくこたえているという感じがする。

曲目はモーツァルトの交響曲第41番とベートーヴェンの交響曲第5番でしたが、いずれもよかった。実は小泉さんの指揮による演奏を生で聞くのは今回が初めで、以前から一度聞きに行きたいと思っていた方でしたが、、その指揮ぶりを間近で見ることができた。生で聞くと、音楽のつくり方がよくわかるようで、やはりいいですね。

小泉さんはカラヤンの弟子なのだが、それにしてもカラヤンに指揮ぶりがよく似ている。少し前かがみになって、左手をやわらかく広げて、音楽を形作るような手ぶりをする。曲の解釈もカラヤンのものを基本的に踏襲しているようですね。

モーツァルトも全体にレガート気味で、一つ一つの音がやわらかくて、豊潤な響きになっている。一方テンポは割と速めで、サッと流れていく感じ。

弦の響きはなかなか分厚くて、それでもフルートやファゴットの音もはっきりと聞こえていた。一つ一つの楽器がきっちり音を出していて、厳格な音作りになっていたと思う。

フレーズの終わりでも各楽器の音のバランスを精妙にとっているようで、弱い音がきれいに溶け合っていた。こういうところにも小泉さんのこだわりが感じられました。このときグッと前かがみになって腕を回す姿が印象的でした。

ベートーヴェンの第1楽章ですが、最初の音が一瞬短めに感じたけど、気のせいだろうか。それはともかく、気迫がこもっていて、ここでも音にとても厚みがあると思った。ガッと音をつかみ取るような演奏でしたね。

特にいいと思ったのが第2楽章で、弦の強弱のコントラストがとてもはっきりしている。ドルチェでなだらかにメロディーを奏でるところ、とてもなめらかに、しかし早めのテンポでグーッとクレッシェンドをしていって、とてもキビキビした演奏だった。クラリネットやファゴットはきっちりとスタッカートで、こういうコントラストも印象が深かった。

終楽章でもとてもよく音が出ていたと思う。この人数でよくこれだけ音が出せるなと。ピッコロだけ少し弱かったかな?という気もしましたが、コーダはものすごい迫力の全合奏でした。

アンコールはバッハのG線上のアリアでしたが、ここでも弱い音を精妙に溶け合わせている。一つ一つの音をとても丁寧に出していて、それがスーッと消え入るように終わる。なかなか小泉さんの要求も厳しいという印象でした。

お客さんもとても満足したようで、ベートーヴェンやバッハではパチパチパチッ!と拍手が巻き起こった。立って拍手する人もいたし、私も感心というか、関西にはこんなにすごいオーケストラがあったのかという感じでした。

日本センチュリー交響楽団のびわ湖ホールでの定期公演は年1回しかないけれど、小泉さんの指揮ならまた聞きに行きたいですね。今日はいい音楽が聞けてラッキーでした。


クナッパーツブッシュ ワーグナー名演集 [音楽]

クナッパーツブッシュが指揮したワーグナーの管弦楽・アリア名曲集。一枚のアルバムにワーグナーの有名曲や往年の名歌手の歌唱がいくつも入っていて、半世紀前の名演奏を堪能できる。

以前もこのブログで取り上げたアルバムですが、それからくり返し聞いても味わい深くて、やはりいい録音だと思う。

録音の年代はかなり古いけれど、音自体はとてもいいと思う。ただこのころのデッカの録音(ソフィエンザールで録ったもの)はコントラバスとかチェロにマイクが近すぎるのか、松脂がこすれるようなギスギスした音が入ることがありますね。

曲目はジークフリートのラインへの旅、ジークフリートの葬送行進曲、パルジファルからクンドリの「幼子のあなたが母の胸に」、ワルキューレからヴォータンの「さようなら、勇敢な、すばらしきわが子」と魔の炎の音楽、トリスタンとイゾルデから第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死で、クンドリはフラグスタート、ヴォータンはロンドン、イゾルデはニルソンが歌っている。

この録音ですが、一体どういう背景があるのか? ショルティによる「指輪」の世界初全曲(スタジオ)録音は当初クナッパーツブッシュによる指揮を予定していたが、クナッパーツブッシュ(入力が面倒なのでファンにならって「クナ」としよう)は途中で降りてしまい、代わりにショルティが起用されたのは(クラシック好きの間では)割と有名な話。

そのときところどころ録音したものをもったいないので編集してアルバムにしたのがこれかな?と思うのだけど、「トリスタン」とか「パルジファル」からも曲が入っているし、よくわからない。プロデューサーもジョン・カルショーなんでしょうか。クナ関連の本には書いてあるのだろうけど。

カルショーによれば、クナが「指輪」から降板したのはカルショーの録り直しの要請を聞きたくなかったからだそうなのだが、真相はどうなのか。それもどうでもいい話なのだけど、まだ当時30代ぐらいだったカルショーが大巨匠のクナにあれこれ注文するのは難しかったのは確かでしょうね。

録音ですが、全体にゆったりめの、大きく息を吸って歌うようなテンポで、雄大なスケールの演奏だと思う。こういうところはいかにもクナらしいということなのだろう。しかし細かいところで名人芸が際立っていて、ほかのワーグナー演奏にはない美点がいくつもある。

特に評価が高いのがヴォータンの告別と魔の炎の音楽のようで、私もこれが一押しだと思う。

第3幕の終盤、ニ長調で、ブリュンヒルトが、自分が縛られる岩山に臆病ものは近づけないよう炎をはりめぐらせてほしい、と歌った後、ここでヴァイオリンがフォルテッシモでラ(C6)の全音符を弾いて、雰囲気がガラッと変わる。すぐにトロンボーンやトランペットがフォルテで堂々たるメロディーを奏でるけれど、ここがすばらしい。ウィーン・フィルの弦がまろやかで艶々した音をくり出してきて、ゆったりと、朗々と奏でる。

これが同じウィーン・フィルでもショルティだとここまで朗々とした感じがしないし、弦のまろやかさも今一つ。カラヤンとベルリン・フィルだとなんだかせかせかしていて、力みがある(あくまでクナの演奏と比較しての印象ですが)。クナだとその点管楽器も重量感タップリという感じで、圧倒されますね。

グーッとトロンボーンの音程が高まっていって、締めに全合奏でドドーン!とフォルテッシモをやる。ここもドッシリ、堂々たる音になっている。それからヴォータンが「さらばだ! 勇敢な、すばらしきわが子よ!」と自分の子ながら感心して歌うわけですが、ジョージ・ロンドンの歌唱がこれに負けてない。まことに分厚い、深い声を聞かせてくれる。

こういうのを聞きますと、やっぱり昔のオペラ歌手はすごかったな、と。今の人はどうしても小粒に聞こえますね。聴衆の趣味も変わったのか、半世紀前はこういう重量感タップリの演奏をみんな好んだんでしょう。このわずか8小節の演奏でもすごいんだな。

それからホ長調に転調して、また怒涛の音楽が流れてくる。弦のトレモロの中で管楽器のメロディーが盛り上がって、またフォルテッシモで全合奏、ゆったりと堂々と奏でる、そういうのをひとしきり繰り返した後、静かになって、再びヴォータンの独白。

ここもいいですね。しばらく考え込むヴォータン。それから弦がタタタッと4回演奏して、音が次第に高まっていく。ここもはっきり音量の変化をつけてあって、最後の8分音符はかなり強く響く。少し大げさなくらい。

それからまた転調して、トロンボーンが「槍の動機」を演奏する。ここも音が大きいですね。分厚いウィーン・フィルの音が少し荒々しい感じで響く。楽譜ではフォルテで、"Mässig Bewegt"(ほどよい活発さで)とあるのだけど、やや激しい感じ。ショルティやカラヤンだとここも楽譜通りなのだが、クナはもっとメリハリをつける。こういうところもロマン的というか、楽譜にとらわれないというのか。

そしてヴォータンが決然と「ローゲ! 聞け! 耳を澄ませ!」と槍で岩を打ち、炎を呼び出す。魔の炎の音楽ですが、ここのフルートとクラリネットも繊細でとても丁寧な感じ。ビオラやチェロもまたまろやかにゆったりと音を奏でて、ロマンチックでいいですね。夢のような雰囲気がよく出ていると思う。

とまあいろいろ書きましたが(いいかげんなところもたくさんありますが)、感情のうねりが激しくて、とにかく圧倒されてしまう。戦後のショルティらの演奏に比べると、はっきりロマン的な演奏だと思う。戦前はこういうのがむしろ主流だったんでしょうか。

ほかにも聞きどころが満載なのだけど、ジークフリートの葬送行進曲やイゾルデの愛の死は、これに比べるとオーケストラの重量感が物足りない。クナも調子にばらつきがあったのか。こういう人は確かに録音向きではなかったという感じがする。

それはともかく、これ1枚で偉大な巨匠、名歌手たちの芸術を心行くまで味わえる。1000円とはお買い得ですね。

ワーグナー名演集

キルステン・フラグスタート(ソプラノ)、ジョージ・ロンドン(バス・バリトン)、ビルギット・ニルソン(ソプラノ)

ハンス・クナッパーツブッシュ指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

1956、1957、1958、1959年

ワーグナー:名演集

ワーグナー:名演集

  • アーティスト: ワーグナー,クナッパーツブッシュ(ハンス),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2013/05/15
  • メディア: CD



トランペット協奏曲(フンメル) [音楽]

トランペットの名手モーリス・アンドレによる演奏。管弦楽は カラヤン指揮ベルリン・フィルで、録音は1974年。トランペットの名曲として知られているようだけど、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ協奏曲とかヴァイオリン協奏曲に比べるとマイナーですね。

曲自体もハイドンのような、モーツァルトのような、ベートーヴェンのような。フンメルはハイドンとモーツァルトに師事して、ベートーヴェンとは友達だったというからさもありなんである。

けれど聞いていると割と癖になるというか、第3楽章のメロディーなんか仕事中でもふと口ずさんでしまう。ズッタカタッタ♪という感じの軽快で親しみやすい曲で、小品集とかBGMにはピッタリだな。

アンドレですが、私はあまり知らない人なのでちょっと調べると、20世紀を代表するトランペット奏者の一人だという。難曲を完璧に吹きこなすテクニックの持ち主で、かつ流麗な演奏で知られたとか。

確かにこの演奏でも、ものすごいスピードで細かい音符をきっちり吹いているけれど、音の一つ一つがとてもやわらかくて明るい音色だと思う。とても気品のある音ですね。ゴールウェイのフルートとなんだか似た感じで、カラヤン好みの演奏だったのだろう。

第3楽章の転調した後がまたいい。メゾ・フォルテで奏でるトランペットのメロディーが飛ぶようでかっこいいし、オーケストラの音もまことに軽快で透明感があって、こういうところをサラッとやってのけるところはさすが全盛期のベルリン・フィルだと思う。

アンドレはこの後ザルツブルク音楽祭でも小沢征爾の指揮するロンドン交響楽団とこの曲を演奏して録音が残っているが、この録音に比べると音がやや粗く感じる。ライブとセッションという違いはあるのだろうけど、やはりカラヤンの音色、響きへのこだわりがあるのかと思う。繊細にやわらかく吹くようかなり指示されたのではないかな。

オーケストラもベルリン・フィルの方がもっとすっきりしている。このスピードで演奏するとゴチャゴチャッとしてしまいがちだと思うけれど、そこは当時のベルリン・フィルで、各楽器の音が明瞭に聞こえる。ロンドン響もいいオーケストラだけど、こういうところでは差が出るかな。

EMIの録音で残響が過剰気味で全体に音が乾いているようなのは少し残念だけど、当時の名手と名門オーケストラの名人芸を堪能できる、いい演奏だと思う。

フンメル

トランペット協奏曲 変ホ長調

モーリス・アンドレ(トランペット)

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1974年

トランペット協奏曲集

トランペット協奏曲集

  • アーティスト: ヴィヴァルディ,フンメル,L.モーツァルト,テレマン,カラヤン(ヘルベルト・フォン),ティルデ,ウーブラドゥ,ザイフェルト,アンドレ(モーリス),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2003/01/22
  • メディア: CD



歌劇「リゴレット」 [音楽]

以前にも書いたジュリーニの「リゴレット」。あまり聞かない録音だと思って、改めて聞きなおしてみる。渡辺和彦が「やり過ぎと言われた録音」とどこかに書いていたけど、一体どこが「やり過ぎ」なんだろうか?

「リゴレット」の名盤として高い評価を得ているようだけど、それはどこに由来するのか。この録音の特色は何なのかと今一度考えてみる(暇だなあ…)。

前にも書いたけれど、やっぱり物静かな演奏だと思う。ジャンジャン鳴らして大げさにリゴレットの悲劇を描く、なんていうお涙ちょうだいものじゃなくて、人間の運命と不条理を冷徹に見つめている、という感じ。一つ一つの音をしっかりと鳴らせていて、窮屈なぐらいのまじめな演奏になっている。それがこの曲の演奏に新境地を開いた、なんて言えるのかもしれない。

序曲ですが、その緊張感がすごい。グーッと中身が詰まったような演奏で、狂気じみた感じさえする。

ハ短調で、トロンボーンから不気味な旋律を奏でていき、ほかの管楽器、次いで弦も加わっていく。そのおぼろげな、ぼんやりとした不安な感じがよく出ている。それが一転、ピアニッシモから一気にフォルテッシモへと駆け上がり、弦が悲痛な旋律を奏でるのだけど、そこがガーッ!と切り裂くような激しい弾き方。ここからして特徴的だと思う。

終結部の和音もすさまじい合奏で、容赦ないという感じ。最初はごく静かに、丁寧に始まるのだけど、パッと変わるんですね。そこがジュリーニのすごさというか、解釈の深さを感じる。この物語の主題、リゴレットが娘の死という突然の不条理に襲われる、そういうところを描いているのだと思う。

この歌劇の有名曲はマントヴァ侯爵の「女心の歌」ですが、この録音ではプラシド・ドミンゴが歌う。それだけでも魅力なのだけど、今回聞いてみてクルト・モルのモンテローネ伯爵もなかなかいいと思いました。くすんだような少しくぐもった声が不吉な感じがして、呪いの感じがよく出てる。

考えてみれば、不条理劇といっても実はその原因がちゃんとあるわけで、モンテローネとその娘を笑いものにしようとしたリゴレットにはモンテローネの呪いがかかっている。そこらへんはまだ19世紀的というか、完全な不条理ではなくて、因果応報の要素がある。ただリゴレットにだけ呪いが成就してしまうところが「不条理」なのかな。

カップッチルリの歌唱もすばらしい。公爵に「かどわかされた」(古い言い方)ジルダを返してくれと公爵の家臣たちに迫るシーン。ここもかな切り叫ぶのではなくて、苦しみ嘆きながらもどこか誇り高い感じで歌う。

せむしの道化にも誇りというものがあるのだ、というような。そして「子どもの名誉のためなら、親には何も恐れるものはないのだ」と歌うのだが、ここらへんも時代を感じさせますね。

昔は娘を「慰みものにした」(これも古い言い方)男は、娘の父親や兄弟がナイフで刺し殺したりしたものなんでしょう(特にイタリアなんかでは)。今の世の中ならこんなことで殺人事件なんぞにはならないのだろうが、昔の人は「名誉のために死す(あるいは殺す)」というのは割合自然なことだったんでしょうね。そしてコトルバスとカップッチルリの二重唱、とても二人の声が調和していて、親子の情愛を感じさせるいいところだと思う。

ウィーン・フィルの音ですが、これも盛大に鳴らすという感じではない。歌手の声を支えることに徹しているんだろうけど、それにしても少し音量が物足りないようなところもある。カラヤンの演奏に慣れているせいかな。

そしてリゴレットはスパラフチーレに公爵の暗殺を依頼するのだが、スパラフチーレを演じるギャウロフもいいですね。皇帝や国王を歌っても一流だけど、ここはすさんだ殺し屋の感じがまたよく出ている。

しかしこのスパラフチーレも殺し屋としてのプライドは一応持っていて、金をもらったからには殺しはやらなくちゃならない、と妹に言う。ところが結局身代わりの誰かを(つまりジルダを)殺すことでOKにしてしまうのだから、ひどくいいかげんなプライドなのだが、とにかくこの人も誇りはある人なので、ギャウロフのようなキャストがいいのでしょう。

ドミンゴの「女心の歌」は澄んだテノールが心地よいですが、その分いやらしさが出ていないような気が。テンポも少し遅めで、弦の音が引き延ばしたようでちょっと聞き苦しい。聞く人の好みにもよるでしょうが。

トスカニーニの歴史的名盤に比較すると多少ケチもつけてしまうのだけど、出演者、指揮者、オーケストラのそれぞれの良さはよく出ている。また改めて聞いて、その良さを探ってみたいと思います。

ヴェルディ 歌劇「リゴレット」

ピエロ・カップッチルリ

プラシド・ドミンゴ

イレアナ・コトルバス

ニコライ・ギャウロフ

クルト・モル

エレーナ・オブラスツォワ

ハンナ・シュヴァルツほか

ウィーン国立歌劇場合唱団

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

1979年

ヴェルディ:リゴレット 全曲

ヴェルディ:リゴレット 全曲

  • アーティスト: ジュリーニ(カルロ・マリア),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2000/08/23
  • メディア: CD


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